相互理解・相互誤解 ?

文化をどう表現するかは、翻訳の醍醐味でもあり、またとても難しい問題でもあります。フランス語でみなさんなら日本文化をどう表現できるでしょうか?花王のテキストを一例に考えてみましょう。

 

  • 花王のテキストから
  • フランスへきてしばらくしてどうやら何とかフランス語が話せるようになって、日本好きのフランス人と話をするとたいてい、禅や仏教の話とかあるいは日本の経営方式の話などになり、聞いていていつも、「彼らはフランス人の感性にしたがって勝手に日本の文化文明を受け取って解釈しているが何にもわかっていない」、こう思うことが多かったのです。

    ところが、次第に多文化コミュニケーション(というか、同じ日本人同士でも同じことですが・・・)の難しさというかデリケートさがわかってくるにつれて、だんだん自分に自信がなくなってくるんですよね。

    どういうことかというと、私に日本文化について滔々と語っている目の前のフランス人が日本文化を分かっていないのではなくて、それを聞いている私が、相手のフランス人のフランス語の含みが理解できていないのではないかと、ある日心配し始めたのです。

    つまり私の日本文化について語るフランス人は日本文化をきちんと理解していて、その説明を聞いている私が彼のフランス語をきちんとわかっていない・・・こういうこともありうると思いだしたのです。

     

    たとえばこんな例を考えてみましょう。

    化粧品の会社の「花王」が2000年ごろですか、「明の知」、「暗の知」、「黙の知」ということを言い出して、その説明が下記です。

     

    「知」こそ経営の重要な資源であると私は思う。最近言われているナレッジマネジメントも、この「知」を上手にマネージしていこうという発想である。 私は、「知」を大きく三つに分けて考えている。誰の目にも見える知は「明の知」である。これに対して「暗の知」は、例えば自転車の乗り方など、その人の体の中には埋めこまれているが、人にはうまく伝えられない知である。さらに、人が集まってくると、その人たちが集団の中で生み出していく知がある。これを私は「黙の知」と呼んでいる。例えば社風や企業文化、伝統などである。

     

    これをフランス人の経営学科の大学の先生が説明すると下記のようになります。

     

     La connaissance n'est qu'une partie du "chi" qui va du "Mei-no-cji", qui est clair et transparent, au "Moku-no-chi" qui est global, silencieux, inspiré et qui représente la providence, le savoir octroyé par dieu au travers de la création. Entre les dexu se place le "An-no-chi", sombre et incarné dans l'individu, dans son savoir-faire propre. Le "Mei-no-chi" représente la connaissance explicite clairement formulée par le langage, soit avec des mots, des lettres, des figures ou des valeurs numériques comme des données ou encore des informations élaborées. Enfin, "An-no-chi" est la connaissance implicite et personnalisée qui ne peut pas être exprimée de la même manière car elle se niche à l'intérieur de l'individu, dans sa subjectivité, dans son savoir-faire, voire son savoir être. "Moku-no-chi" représente la connaissance localisée dans le "ba" du groupe ou de l'entreprise. C'est elle qui fonde et qui sous-tend chaque "ba", elle plonge au-delà du "Mei (visible)" et du "An (intériorisé)". "Moku-no-chi" est constitué par les trois composantes spirituelles de l'homme : la sagesse, l'amour et la volonté. il est fondamental, inhérent, intrinsèque et constitue le fondement de la connaissance vitale et inexprimable.

     

    こういうのを読んで、昔は、いやどこか違う、ずれている、この人は日本の心がよくわかっていないんだ、こう思ったのです。 ところが最近は、もしかしたら、相手がフランス語で言っていることが、つまりその「含み」もあわせて、私が相手のフランス語をよくわかっていないからかもしれないと、思い出したのです。

    つまり、この先生は完璧に「花王」の言いたいことや心がわかっていても、フランス語で表現するとこうなるということなのかな? ということです。

    そのフランス語を読んで、ぴたっと自分が日本語で理解した「花王」の心が浮かんでこないのは、相手が「花王」の心をきちんと理解していないのではなくて、私のフランス語が感性的にわかるという域に行っていなくて、自分の日本の文化文明で出来上がった自文化の座標に対応させてフランス語を理解しているレベルだから、そういう何かしっくりしないものを感じるのかな? ということです。

     

    みなさんはどうでしょうか?また、みなさんならどう訳すでしょうか?

     

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